(生い立ち)
嘉永3年(1850)、薩摩藩士の漢方医前田善安の末子6男として生まれる。
9歳で蘭学者に住み込みで師事し、学問的素養を身に着ける。
(長崎遊学)
近代日本への胎動の中で、向学心に燃える正名は、16歳の時に藩費で長崎に遊学。語学塾に籍を置くとともに、坂本竜馬や、後に明治に活躍する人々と交流を持った。
長崎遊学中の正名の大きな関心事は、洋行して西洋文明に触れることであり、また、渡航費さえ工面できれば、洋行できる情勢にもあったことから、渡航費用を得るため、兄献吉等とともに、明治2年『和訳英辞書』(通称『薩摩辞書』)を発行し、政府に買い上げをしてもらった。
(パリ留学)
この「薩摩辞書」を足掛かりに、明治2年、20歳の時に、正名はフランスに留学することになる。この留学は7年間の長きにわたるものとなったが、この間、普仏戦争、パリ籠城を経験するとともに、仏和辞書の編纂やフランス農商務省の高官から行政や農業経済について学んだ。明治10年(1877)、フランスの産業政策や草木、果物、穀物などの有用な種苗を大量に携えて帰国した。
(興業意見)
帰国後、正名は明治政府の内務、大蔵、農商務など各省の枢要な地位で活躍し、明治23年(1890)、41歳の若さで農商務次官に昇進するが、農商務大臣との意見の対立からわずか4か月余りで辞任し、野に下った。この間、特筆すべき功績は、明治17年の『興業意見』の編纂である。これは、地方在来産業、特に生糸やお茶などの輸出産品を保護育成し国力を充実させようとの政策であったが、政府内の諸般の事情から挫折した。しかし、現在においても、その内容は高い評価を受けている。
(全国行脚)
野に下った正名は、「脚絆に股引、わらじがけに尻からげ、蓑と小さな行李を背負い、蝙蝠傘という異様な風態」(人物叢書『前田正名』の引用)で全国を駆け巡り、茶業、農業、蚕糸業など地方産業振興運動にその生涯を捧げることになる。
(園主として)
明治39年(1906)、北海道国有未開地処分法により牧場として約3,200haの貸付を受け阿寒湖畔に、阿寒前田一歩園の事務所を設立し、牧場のための森林の開発を始めた。園主として、明治40年と44年の2度阿寒湖を訪れた。
正名は明治26年東北・北海道行脚で初めて北海道を訪れるが、その後、明治31、34、40、44年と北海道を訪れている。
明治32年に、釧路に前田製紙合名会社を設立。これが、今日の釧路の製紙業発展につながっている。
(残した言葉)
「前田家の財産はすべて公共事業の財産とす」(家訓)
「後の世の春をたのみて植えおきし人の心の桜をぞみる」(遺訓)
(主な出典:祖田修著「前田正名」吉川弘文館人物叢書)